読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

野心なき知性

メンヘラエンジニアの戯言

殺人者の告白。

小説

僕はエスカレーターに乗るときに決まって右足から踏み込む。もう少し正確に言うと、右足からでしかエスカレーターに乗ることができない。ハードル走や走り幅跳びと同じでタイミングのようなものがあり、僕はエスカレーターのはるか遠くから歩数を意識して、歩幅を合わせる。こんな僕を人は不思議に思うかもしれない。

 

僕は猫舌だから猫舌でない人の気持ちがわからない。出された熱々のコーヒーをためらいもなく口に運べる人を羨ましく思う。ついでに言うと、熱いものを持つことも苦手だ。昔、おばあちゃんに「猫舌の人は舌だけでなく肌まで猫舌なんだ」と迷信めいたことを言われたのを思い出した。ああ、そういえば、さっきのエスカレーターの話、僕は左手を手すりに乗せないとエスカレーターに乗ることができない。

 

他の家に生まれたかったなんてことを反抗期の少年がよく言うけれども、他の家が果たしてそれほど良いものなのか知るすべはない。こう言う風に言うと、いや友達の家にお邪魔した時に垣間見える親子の会話が、とか、そう言った屁理屈みたいなものがいくらでも出てくるだろう。けれどそれは厳密には他の家に生まれたことにはならない。ただ、他の家の一やり取りを見ただけだ。

 

他の人に生まれたかったなんてことは皆あまり言わない。端正な顔立ちの有名人なんかに生まれ変わりたいとかそういう表現を使う。僕は思う。他の人に生まれたかった。そうでないと自分が正常な人間、まあこの正常という表現が非常に難解なところではあるのだけれど、なのかわからないからだ。外見に変化がなくても内部で認識や思考が、一般レベル、平均レベルとは異なっているかもしれないなんてこともあり得る。しかし、僕らは他人になることはできないから、一度だけの人生だから、それを当然として平均として一般として生きている。もしかしたら、人には見えないものが見えていたり、人には聞こえるものが僕にだけ聞こえていなかったりするのかもしれないのに。

 

これらの推察を通して僕が伝えたいことは、自分が普通であることの証明は、自分が他の誰かになってみなければ、それも1人や2人でなく、大勢に、できないということである。それならば、最初から自分が普通かどうかなんて考えるのは無意味だということだ。

 

さて、僕は君が知っているように人を殺した。かつては神童と言われ、崇められた僕も今や、れっきとした殺人犯だ。殺した理由なんて語る意味もないように思う。そんなもの殺した奴にしかわからないからだ。第一皆、殺人犯をはじめとした犯罪者には近寄りたくも、なりたくもないと思って軽蔑しているくせに、彼らが起こした犯罪の動機を知りたいなんて矛盾しているにもほどがあるじゃないか。知りたいのか知りたくないのかどっちなんだい。まあこれは難題か。

 

以上の理由から僕は殺人の動機を語ることはよそうと思う。殺人犯の脳内なんてきっと知りたくもないだろう。同じ種である人間を殺す奴なんて、同族を食ってしまう奴なんて、低俗な動物じゃないかって思うかい。勘違いするな。僕ら人間もまた動物だ。食べて、寝て、繁殖して、できるだけ種を永続させようとしている動物に過ぎない。ただ今、現時点においては僕ら人間様が動物界の頂点に立っているように見えるだけで、それも本当かわからないし、今後どうなるのかもわからない。

 

少し話を戻そう。僕は人を殺した。それはいけないことだ。何故か法律に書いてあるからだ。それじゃあ弱すぎるよ。いやいや倫理的に問題があるからだって。まあそうなんだろうけどじゃあその倫理って一体なんだよっていう話。僕の考えだと、人が人を殺してはいけない理由は、人間がただの動物に過ぎないから。それは先程語ったとおり。動物は種を繁栄させなきゃならない。できるだけ長く生き残らなければならない。だからこそ僕らは同族を殺すようなことをしてはならない。人を1人殺すようなことをしたら、その1人から生まれる可能性のあった子供、そのまた子供という風に何千人、何万人も殺してしまったことになる。まあだからって、何千人も殺している独裁者を殺さずにいるのはどうかと思うけどね。

 

僕はこうして人が人をなぜ殺してはいけないのかを断言できる。生物学的な観点からの非常に科学的で数学的、論理的な意見だ。だから、それをわかっているからこそ僕はあえて人を殺した。それは誰でも良かったわけじゃない。そいつの子孫が何人いようとも、それでもそいつは死ぬべきだったから、あんな腐った奴から生まれた子供もまた腐った奴だろうし、いやそもそも、こいつに、結婚して子孫を残すことなんてできやしなかっただろうから。

 

殺人は思っていたより綺麗なものではなかったよ。ブァッと鮮血が舞い上がり、それも僕らが思い浮かべる朱色に近い明るい赤ではなくて、どろっとしたレバーのようなどす黒い色だったよ。僕の視界は一瞬でそのどす黒さに覆われた。そのあとに襲ってきたのはゾクッという肌寒さと鉄の匂い。自分の景色が変わっていくのを僕はきっと忘れないだろう。ああ僕は人を殺したんだ。その感覚は今でもこの手に残っているよ。

僕が何故彼を殺したのか。その話をする前にまずは僕の身の上話をしなければならない。長くなるだろうけど。さて僕は恵まれた家庭に生を受けた。沢山の愛を両親に注いでもらって幼少期を過ごしたよ。それはもう幸せの連続だったさ。何一つ覚えていないけれどね。でも周りの大人たちが恵まれているわねとか幸せねって口をそろえていたんだから間違いはないはずだろう。

 

僕は小学生の頃担任が四年間も同じだったんだよ。それはもう厳しい人でさ、モンスターペアレントとか体罰が問題になる前のことだったからできの悪い奴はよく殴られていたね。僕はというとそんなことは全くなくて確実に何でもできる優等生だったよ。頭もよくて学級委員で足も速くてそりゃモテまくりの日々だったよ。バレンタインなんかクラスの女子ほぼ全員からチョコレートをもらっていたんだぜ。今はそんな面影もないような顔をしてしまっているから、この話誰も信じてくれやしないだろうけど。

 

中学校に入ってからの一番大きな変化はメガネをかけたことだ。これで一気にインテリ界隈への仲間入りだ。外で激しく運動して女の子と遊びまくるいわゆるリアルが充実した奴らとは一線を画していたね。その甲斐あって、僕は都内ではそれなりに優秀な高校に進学できたんだ。

 

ええと、ここまで語ったところで一休みしたいんだけれど。僕は、別に親に虐待されたとか、友達にいじめられていたとか、そういう悲しい過去を背負った人間ではないんだ。金銭的にも人間関係的にも恵まれていて、妬まれるくらいの生活を送っていたんだ。だが、そんな僕は、今、そいつの返り血を浴びて息も絶え絶えなわけで。付け加えるなら性格も歪んでしまっているんだ。

 

高校から大学は決して超一流のエリートというわけではなかったけれど、まあそれなりに、そうだね上位何パーセントの道を歩んできたつもりだ。うーん。ここでまた話さなければならないのだけれど。この時点で僕はまだまともな恋愛を行ってきていない。いいかい、これが僕の一つ目の闇だ。誰かに愛してもらったことがないんだ。

 

そしてそっから僕はいわゆる中小企業にエンジニアとして就職することになった。ここで、二つ目の闇。一つ目の闇とも関連するのだけれど、僕は自分の容姿に自信がないんだ。いや、嫌いなんだよ。醜いこの顔が。生まれてこの方、誰からもかっこいいと言われたことがなく、恋人もいなかった。そんな僕が生きている意味なんて、ほら君も思ってきたはずだ、ないんだよそんなの。

 

だから僕は社会人になってからも病んでいた。歪んでいた。僕の容姿がもう少し良かったらもっと女にモテて、恋人もできて、自信や勇気をもらって大企業の面接も受けることができるくらい、ってああ。もう考えたくもないよ。イケメンなんて言葉を作った人間が目の前にきたら僕は一体何をしでかすか自分では予想がつかないよ。

 

恨み、恥ずかしさ、悔しさ。僕は歪んでいた。それが最初からなのか途中からなのか。要は先天的なものなのか、後天的なものなのか。それすらわからないし、そんなこともう考えたくもないよ。だって今僕は人を殺しているんだから。

 

さっき僕は大きな嘘をついた。僕は人を殺したんじゃない。今この瞬間、人を殺しているんだ。音はNなのにKから始まるこの武器で、僕は君を殺しているんだ。嘘をつくといけないなんてことは、それこそ小さい頃から何度も聞かされている話なんだけれども、大変残念ながら僕は、嘘をつくことが病的にうまい。普通に話をしていて平気で嘘を吐く。それもすぐにバレるような嘘ではなく、きちんとその嘘を記憶して、つじつまが合うように計算されたうまい嘘だ。だから、君を手に掛ける前から僕の被害者はたくさんいるんだよ。

 

さて、もうこの回想、独白にも限界がきた。何故かって、僕が手にかけているのは『そいつ』でも『こいつ』でも『君』でもなければ、『僕』だからだ。そう、Kから始まるその武器は他の誰でもない、僕自身に向いているんだよ。だからこれは、殺人者の告白ではなくて、自殺者の告白だ。さようなら世界。僕は醜い僕を誰よりも憎んだ。愛されない僕を誰よりも恨んだ。その結果なんだ。この行動は。そして大変気味が悪いことに僕は今、大きな鏡で、自分が死ぬのを眺めているんだ。

 

もう少し、あとちょっと。醜い僕とはおさらばできる。僕は僕をもう嫌いにならなくていいんだ。生まれ変わるとかそんなバカみたいなことはこれっぽっちも考えちゃいない。死んだら無が待っているだけだ。来世になんて期待しないし、あったら困るんだよむしろ。またこんな醜い姿で生まれてきたらどうするんだってね。

 

それじゃあ、もう大きなペットボトルを全部こぼしたみたいに、液体がお腹を流れていくものだから、ここらでジ・エンドにしよう。というかもう続けられないしね、続けたくても、まあ続けたくなんて、ないんだけどさ。